お久しぶりです。
経産省の補助金に振り回されようやく落ち着きブログがかけました。
今回は、美容学生さんや20代の美容師で将来の働き方いついて考えている方達に向けた記事です。
これは全体的に言えることってわけじゃなく、僕個人の生き様から感じたことを書いているので、「こういう考えもあるのか」程度に見てもらえると、違った角度から参考にしてもらえるかもしれません。
始まりは理容師から
きっかけは高校の進路を決める時だった。
特にやりたいこともなく、実家が床屋という理由から「継げばいいや」という感覚で理容専門学校に入学。
2年間の学校生活を終え就職活動の際、その環境にいたからか床屋の業界の感覚に染まっていたので、住み込みでもいいからガンガン練習して上を目指したいという感覚ではあった。
いわゆる、床屋の古い徒弟制度が当たり前だと思っていた。
そんな考えでいろいろと面接を受ける中、ルミネを中心に展開するサロンの面接を受けた。
当初イメージしていた個人店で、徒弟制度で、チャンピオンがどうとかの感覚ではないサロンだった。
床屋のくるくる回るやつも一切出していなく、お客様も若い年齢層の女性で完全に美容院の感じだった。
サロン自体の登録は理容で、働くみんなの免許も理容師免許だが、お客様は美容室と思ってきている感じだ。
そこを受け、就職することに決まり、新宿店という街中のサロンに配属された。
やりたいことができた
朝の準備から合わせると、たしか8時くらいに出勤して、22時に退勤、休みは月に5日くらいだったかと思う。
今思えばすごいが、当時はみんなのモチベーションもすごかったし、その時間になんの疑問も感じていなかった。
ただ美容師という仕事の楽しさを知った。まわりの同期や先輩たちのすごい熱量もあったかと思う。一番最初にあの熱量の仲間達と仕事できたことは今でも財産だ。
ポイント1:同じ熱量の仲間が多いと成長も早いし、多少のことなら乗り越えられる
そこを退職後も美容師として生きたいと思った。
でも理容師免許で雇ってくれるところはなく彷徨った。
そんな中、通信で美容師免許を取ることを約束に、雇ってくれるサロンを見つけ就職。
正直カリキュラムや、サロンの雰囲気など気にしていなかった。練習時間さえくれれば勝手にやろうと思っていたからだ。
そこは今までの都市部の感じとは違う地域密着型サロンだった。
客層も、スタッフの雰囲気も何から何まで今までと違った。
当時はネットがほとんどないに等しく、今ほど前もって情報も得られないのもあるが、われながらあまりに適当な選び方だったと思う。
ポイント1では熱量がと言ったが、この時はその大切さに気づいていないから選ぶ基準にもなっていなかった。
時間を切り売りしていた時代
22歳の時にはスタイリストになり、25歳で店長になった。単に人がいなかったからというのもある。
ひたすら練習していた。
教えてくれる人はいない。
カットもパーマもカラーも全て自己流だ。
教えてもらった方が圧倒的に早い。効率は悪かったとも思った時期もあったが、今思うとトライアンドエラーの精神は経営者に役立っている。
全部を教えてもらう事による弊害もわかった上でマニュアルに取り組むのが一番望ましいと思う。
夏休みもは、朝から練習できるチャンスだと思ってずっと実家の床屋で練習していた。
拘束時間は9時〜20時、月6休。そこから練習だった。
休みの日まで仕事の事しているからほとんど自分の時間もない。
今みたいなワークライフバランスのような発想もなかったし、ネットが発達していなかったからいろんな考えを得ることができなかった。
25歳の店長の時には給料で40万円以上もらえていた。
でもそれだけ自分の貴重な若い時の時間を切り売りしていたということだ。
業界的に、年齢的に、金額的にもよくは見えるので、当時は満足していた。
今思えば間違っていたと思う。
ポイント2:若い頃の時間は未来のために投資するべき。その時の給与額は未来に何も残してくれない。
間違っていたとは言っているが、個人的には「選んだ道が正解」と思っているから、その経験があるからこそ今活きていることもあるから後悔はないが、「こうしとけばもっとよかったな」的なこととして言っている。
独立を決意
26歳で結婚をし、第一子を授かる。
その時から初めて、やっと将来的なことを考えるようになった。
いろんな不安が出てくると、独立の文字がよぎる。
先に独立した前店長が、
「渡辺くんならちょろいよ」
というなんとも適当なアドバイスを間に受け独立。
しかも杉並から江東区なので顧客は0だった。
無知は恐ろしい。
当時からチラシの作成などをやっていたからオープンのチラシを作成しオープン前に大量に撒いた。
オープン初月から黒字続きで、確かにちょろいと思ってしまったのは事実。
それもそのはず、スタッフは自分ともう一人だけ。
9時~20時の長時間営業、
月6日しか定休日がない。
価格も当時のカットで¥4000と安めだから集客しやすい。
今の考え方とは正反対だ。
自分がプレイヤーでメインでやるなら自分の所得を増やすのはそんな難しいことではないということだ。ほぼ自分だけ食っていければいいのだから。
ただやはりここでも時間の切り売りの問題だ。
この時得ていたのは所得だけで、得られなかったのは、
- 家族との時間
- 経営者として成長するための時間
だった。
いつまでもプレイヤーでいるスタイルでいるのか、いつかは経営者をメインとして生きるのか、それはその人が決めればいいことだ。
自分は経営者を本業として生きていきたかったから、その当時の生き方は矛盾していたことになる。
この時も自分の所得に満足してしまっていたので自分の貴重な時間をただお金に変えているだけのことに気づいていなかった。
2店舗目出店から方向性が変わる
以前、
こちらの方でも2店舗目のことは書いているので省くが、色々とあって本気でスタッフの幸せ、豊かさを求めるようになった。
そのためには仕組みや、気持ちよく動いてもらうことなどが必要だった。
一言に仕組みといっても一朝一夕でできるものじゃない。
労働時間、給与、単価、メニュー、マニュアル、就労規則など全部が繋がりあったものを作る必要があった。
しかし、美容師をフルにやっていた当時ではそんな時間は物理的に無理なのに、できないのは自分の力不足と思い込みながらやっていた。
だんだん美容師という仕事自体が嫌になるくらいだった。
それってストレスだ。
だからネフローゼという腎臓の難病になった。疲れやストレスが原因らしい。
11月から12月の中旬まで、忙しい中入院。
しかし、現場は意外に回った。
それを機に週3勤務にし、4日は自分と経営者の時間とした。
経営者へのシフトは、頭ではわかっていたがなかなかできないでいた。でもこんなにもあっさりできるとは。
ポイント3:「こうした方がいいかも」と思っているけど環境的に無理と思い込んでいるのはただの思い込み。飛び込んでみたら意外と簡単なこと。
病気に感謝だ。
一気に加速する
時間を得た自分は一気に加速した。
まず、営業時間を大幅短縮した。
その後は定休日を増やし、絶対に有給を取れるようにもした。美容師平均年間休暇90日と言われる中有休入れずに116日ある。
一旦この辺で、自分が着手したことのデカさに気づき、動悸がとまらなかった時期もあった(笑)びびっていたのだろうか?
さらに支給したい給与を先に設定した。ヘルプなしで1日4人担当すれば約30万円+ボーナスという設定だ。
売り上げどうこうのまえに、営業時間を短くしたのに高還元の給与に設定したのだ。ドキドキは最高潮だ。
それを基準に単価も見直した。メニューの構成も見直すことにもなる。
それらは全て綿密に繋がりあった計算があるからすぐにできることではなく、ものすごい頭を悩ませた。
そして今完成された。
この取り組みが成功すれば、「女性美容師があらゆるライフステージで悩むことなく好きな仕事が続けられる環境」が確立される。
もちろん小規模でのテストも兼ねているので大失敗で全部ぶっ飛ぶようなことはない。
いつまでもトライアンドエラー。自己流で全て練習してきた感覚が活きている。
ポイント4:あの時こうしとけばと思うことがあっても、絶対にそれは今に活きる。自分で選んだ道が正解だから。経験者のアドバイスと自分の判断があれば最強だ
まとめ
そこそこ長い美容師人生だから、超端的に書かせてもらいました。
自分の判断はいつでも正解。短期的な後悔はあっても長期的にみたら糧になっている。
だから迷わずやりたいことをやればいいと思います。
ただ一つアドバイスするなら、給与額を追いかけず、時間を有効に使って未来の自分を成長させた方がいいということ。
ほんと当たり前だけど時間は取り戻せないけどお金は後からいくらでも稼げる。
その状態になるためにも、限りある時間を捻出できる環境に身を置くこと。
そしてその時間を自分の成長に当てること。もちろんたくさん遊んで。
この当たり前の響きを、僕の体験談を通してリアルにキャッチしてもらえたら幸いです。
頑張ってくださいね!
少し先で待っています👍
「プライベートも仕事も充実させて人生を豊かに過ごしてほしい」そんな想いから様々な改革を行なっています。ママ美容師が働きやすいママ美容師だけのサロンも展開。長時間労働、少ない休みに頼った売り上げ構成を辞め、「ちゃんと経営をして」利益を上げる事で少しずつ着実に想いを実現させています。
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